1980年夏の高校野球で、都立高校として初の甲子園出場を果たし「都立の星」と称えられた「国立(くにたち)高校」。なぜ「奇跡」と呼ばれ、今でも語り草となっているのか? 当時の学校群制度を中心にまとめてみました。(文中敬称略)
1980年夏の高校野球、「都立の星」国立(くにたち)高校が甲子園出場
1980年の夏でした。東京都国立市にある”国立(くにたち)高校”が、高校野球「西東京大会」の地区予選をあれよあれよと勝ち上がり、優勝して甲子園への進出を決めたのです。
東京都立高校の甲子園出場は、春夏含めて史上初の快挙でした。
実は、私の兄がこの1980年春に国立高校に入学していました。このため当時の関係者のバタバタした状況がよく分かります。
学校側は各家庭に「甲子園遠征費」のカンパを要請した
「甲子園出場」という全く予定外の事態に慌てた国立高校側は、遠征費を捻出をするため、各家庭に「資金カンパ」を要請。
私の家にも「お願い」ペーパーが来ていたのを覚えています。
短い期間で、どの程度の資金を確保できたのか私は知りません。無事に遠征はできたので相応の資金は集まったのでしょう。
私の兄も、急造の応援団に組み入れられ、バタバタと甲子園へ旅立っていきました。
▼甲子園出場の35年後の2015年に学校内に記念碑が建てられました
1980年夏、都立勢で初の甲子園出場を果たした国立高校。初戦で敗れましたが「都立の星」とたたえられました。あれから35年。校内に記念碑が建てられました。#高校野球 #朝日新聞デジタル https://t.co/oLvdnCDlM0 pic.twitter.com/uFmX0qgDYX
— 朝日新聞東京総局 (@asahi_edo) 2015年11月2日
国立(くにたち)高校の甲子園進出がなぜ奇跡的と言われたのか?
国立(くにたち)高校の甲子園出場は「奇跡的な快挙」と言われ「都立の星」と称えられました。
奇跡的と言われた背景は、おもに2つあります。
- 細分化が著しい都立高校入試の「学校群制度」
- 国立高校は全国でも屈指の進学校だった
公立高校の「学校群制度」とは学力を平均化するための振り分け
それでは(2004年には全国から消えた)「学校群制度」を簡単に説明しましょう。
「学区」内に「群」を形成→受験生は「群」を選択して受験する
まず同じ「学区」内の複数の高校が「群れ(群)」を形成します。
例えば、第一学区は次のとおりです。
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第一学区
- 11群は「日比谷、九段、三田」の3校
- 12群は「赤坂、城南、八潮」の3校
- 13群は「大崎、南、雪谷」の3校
- 14群は「小山台、田園調布」の2校
- 15群・・・
ちなみに、国立(くにたち)高校は、立川高校とペアを組んで「第七、八、九学区」の「72群」となっていました。
受験生は住んでいる学区内の「学校群」の中から志望する群を選んで受験します。
学校間の平均を保つために受験生に選択の自由がない
志望した群に合格すると、その群の中で合格者の振り分けが行われます。
群の中でどこの高校が割り当てられるのか・・・受験生の希望は通りません。
受験生本人に選択の自由がないのです。
結果として「その群内の各高校の学力が平均化するよう」に合格生を割り振るのです。
「受験生の人権無視」の批判→2004年に全面廃止
さすがに「人権の無視」と批判された学校群制度は、東京都では1981年に廃止。
全国でも2004年までにすべて廃止されました※。(※出所:学校群制度 – Wikipedia)
東京都では”ひのえうま”受験生から「学校群制度」廃止
東京都で「学校群制度の廃止にともなう学区の改編」が行われたのは、1982年入学の受験生からでした。
国立高校が甲子園に出場した年の2年後です。私の高校受験と重なりました。
学区編成が変わってしまったため、私は兄と同じ国立(くにたち)高校を受験することができなくなってしまったのです!
なぜ私の年次から制度が変わったのか?
1966年「ひのえうま」生まれで(極端に出生率が下がり)人数が少ないために実験台にされた・・・と勝手に思っています。
高校受験で学校群が極端に細分化された東京都立高校
東京都は、その人口の多さから、学校群を70~80にも細分化していました。
ちなみに千葉県の学校群は3つ。愛知県も20程度でした。
それだけでも、一つの都立高校に「野球が上手」な受験生が十数名集まる確率は絶望的に低いことは容易に想像ができます。
都立の高校野球部で甲子園に一番近いと思われていたのは東大和高校
1970年代の都立高校では、唯一「東大和高校」だけが西東京大会の予選で決勝やベスト8に食い込む健闘を見せていました。
国立(くにたち)高校は、東大和高校の何年にもわたる奮闘も置き去りにして、まさに「突然に」甲子園の出場を勝ち取ったのです。
1994年、学区廃止により都立の野球強豪校も誕生する
1994年には東京都の「学区」の縛りがなくなり、受験生はどこの都立高校でも選択できるようになりました。
都立高校であっても、特定の高校に「野球巧者」が集まりやすい環境になったのです。
よって1994年以降は、雪谷高校のような「都立の野球強豪校」も誕生するようになりました。
東京都立国立(くにたち)高校は、全国屈指の進学校
もう一つの「奇跡」の理由は、国立(くにたち)高校が全国でも屈指の進学校であったことです。
都立高校では東大合格者数トップの「学校群」
外部リンク 学校群15年史 – 1984年 72群(立川+都国立)東京都6位 には、1983年と1984年の東大合格者数のランキングが載っています。
ランキング表による東京都の72群(都立国立+立川)の順位は
- 1983年 全国9位(合格者62名)
- 1984年 全国9位(合格者61名)
で、都立高校内ではトップとなっています。
国立(くにたち)高校は、全国でもトップ10に入るレベルの進学校だったのです。
「学業成績の良い高校生はスポーツが得意ではない」とは言いません。
しかし当時は特に東京西部に住む国立高校を知る人々にとって「国校(くにこう)甲子園進出!」は、「灘高やラ・サール高校が甲子園に進出してしまう」ぐらいなイメージの衝撃的な事件だったのです。
▼当時のまだ三角屋根だったころの「国立駅」には横断幕が飾られました。
【「都立の星」とうたわれた国立高校元野球部監督、市川忠男さんのご冥福を謹んでお祈りします(7月12日ご逝去、84歳)】市川忠男さんは1980年、都立国立高校野球部を西東京大会で初優勝させ、甲子園に導いた監督です。当時、JR国立駅でも、その健闘を祝いたたえました。市長室広報・広聴係 pic.twitter.com/DlibLOsQ0O
— 国立市 (@city_kunitachi) 2017年7月18日
東大のエースとなった甲子園投手市川武史氏が語るエピソード
国立(くにたち)高校の甲子園での1回戦の対戦相手は、あの和歌山の強豪「箕島高校」(1979年に甲子園で春夏連覇)でした。
兄が通う高校の試合です。当然ながら私はテレビの生中継を観ていました。
4回まで両校無失点。しかし5,6回で箕島に得点を許し、結果としては0-5で破れました。
2017年8月、市川武史氏がインタビューに答えていた
まさか2018年夏の金足農業高校(秋田県立)の活躍を予知していたわけではないでしょう。
奇しくも1年前の2017年8月に、甲子園出場時の国立高校のエース市川武史氏のインタビューが行われていました。
「どんな状況でも負けない練習を繰り返した」。都立高の野球部で初めて甲子園出場した #国立高校(#国高)のエース、市川武史さんが振り返ります。#出世ナビ #nikkeistyle #新着https://t.co/X5tZh6xqHL
— NIKKEI STYLE (@nikkeistyle) 2017年8月18日
東大進学は「マスコミが勝手に書いたから受けざるを得なくなった」
市川氏は東京大学に進学して野球部で活躍をしました。
そのそも東大を受けたのは「マスコミが勝手に騒いだだめ」というのが理由だそうです。初耳でした(笑)
最初は東京工業大学を念頭に置いていましたが、マスコミに「市川投手は東大進学」と勝手に書かれ、なんとなく東大を受けざるを得ないような雰囲気になっていました。
NIKKEI STYLE 出世ナビ より引用
「#甲子園 出場の威力は30年たっても衰えない」。#国立 高校で「#小さな大投手」と呼ばれて活躍した市川氏はこう言います。「考える野球」の教えは仕事にも通じます。 #高校野球 #東大 #出世ナビ #nikkeistyle #新着https://t.co/zug26IptSx
— NIKKEI STYLE (@nikkeistyle) 2017年8月23日