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破天荒フェニックス オンデーズ再生物語【裏話】震災で大ピンチ

小説&ドラマ『破天荒フェニックス』のモデルとなったOWNDAYS(オンデーズ)は、2008~2009年の最初の危機を乗り越えた後、(銀行借入ができない)資金難は続きながらも、増収増益のトレンドに入っていました。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災により、一転して窮地に陥ったのでした。(文中敬称略)

第六感?震災当日の金曜日、私は出社せず自宅にいた

金曜日の昼間に起きた大地震の影響で首都圏の交通機関はほぼ全滅。”帰宅難民”が溢れたその日、私は朝から千葉の自宅にいました。

「今日は(池袋の)本社には行かないほうが良い」と漠然と思ったのです。 これが第六感というものなのでしょうか・・・私はナマズか!?ヽ(´o`;

運命の14時46分。私はPCで資料を作成しているところでした。 

 

 

千葉の自宅は停電して情報が限定的となった

地震発生とともに自宅は停電となったため、私はスマホで情報を集めることになりました。

するとまもなく、facebookにOWNDAYS 本部スタッフから状況連絡が入りました。

 

『池袋がパニックです』

 

 

スマホのバッテリーが不安な私は、非常用のラジオを引っ張り出してきて、断片的な情報から、何とか事態を判断しようとしました。

しかしSNSに上がってくる災害情報は「津波・爆発・火災」と多岐にわたり、なかなか全体像がつかめません。ジリジリ感が強まりました。

自宅周辺の停電と断水は翌日まで続きました。真っ暗となった夜は、結婚式で使ったキャンドル(デカい!!)を引っ張り出してきて灯しました。

 

 

店舗の被害状況が気になるものの、情報が取れません。ノートPCのバッテリーも尽きてしまいそうです。というか、ネットが繋がる環境もありません(WiF使えない・スマホにはテザリング機能なし)。

もはや情報難民。電気が止まることの不便さを思い知りました。

店舗の被害状況を見て回った

2011年3月12日、震災の翌日の午後にようやく自宅の停電と断水は復旧。翌13日の日曜日は、千葉県内のオンデーズ 店舗の状況を見て回りました。

ショッピングモール全体が休業している店もあれば、半日で閉まってしまう店もありました。

下の写真のららぽーと柏の葉店は午後に休館となりました。当時は改装に使う資金も無かったため、以前のオンデーズが一部の店で使っていた「ODs」という屋号とロゴのままの店です。

 

 

すぐに銀行返済の再リスケジュールを要請した

小説『破天荒フェニックス』には、社長の田中修治と私が喫茶店やそば屋でまったり話をする場⾯も登場しますが、実はあまり記憶がありません(笑)。

必要があればすぐに電話やメールで連絡をとっていました。“顔を合わせて初めて話を切り出す”とか非効率すぎて、そんなスピード感では成⻑できません。

小説の中には、東北で⼤地震が起きた翌週の⽉曜⽇に「幹部会議で絶望に暮れる」描写がありますが、これも実際には⼟⽇にメールと電話で協議が済んでいたのでした。

土日で協議→月曜日朝には銀行へ通知した

震災発生から2日後の日曜日(3月13日)には、依然1/3の店舗が正常営業ができない状態でした。そこで私は田中と電話で話し合いました。

 

「銀行の元金返済をまた止めましょう。そうすればキャッシュが向こう半年で1億円は浮きます」

「そうだね。すぐやろう」

「月曜(明日)の朝イチでメールとFAXします」

 

そして私はすぐさまペーパーを作成。(震災から3日後の)月曜日の朝、銀行へメール(またはFAX)を一斉に送信したのです。

 

 

ペーパーの下部【ご相談内容】をお読みください。ポイントは”4回分””元金返済”を凍結すると明記したことです。利息はキチンと支払う意思を伝え、元金返済ゼロとする回数を示すことで、銀行側が稟議しやすいように配慮をしました。

銀行交渉のテクニックの一つです。

再リスケ要請に対する銀行側の寛容な対応に少し感激した

返済の凍結を依頼する文書を送ったその日、全ての銀行がお見舞いの言葉と「ご依頼の件はすぐ対処します」と連絡してきました。

そして程なく、追加資料の提出なしで返済凍結が了承されたのです。未曾有の大災害時に銀行の良心を垣間見れて、少しウルウルしました。

不幸中の幸いは「返済をストップする”口実”ができた」こと

誤解を恐れずに正直なことを言えば、実はこの震災は資金繰りに苦しむオンデーズにとって「銀行返済を再び止める口実」になりました。

2008年7月にいったん約定(やくじょう)返済をストップした私は、元金返済を2008年11月から再開。少額から半年毎に月約500万円を増額してきました。多少は意地になっていた面もあります。

 
▼返済金額の銀行割振り表の抜粋

 

2011年に入ると月2,100万円の元金返済にまで増額。さすがにキツくなってきたため減額交渉のタイミングを狙い始めた矢先に起きた大災害だったのです。

 

実際、震災の少し前に、当時の借入残高が最も多かった銀行の担当者も「次回からは毎月の返済額を減らしても良いと思いますよ」と親身になって言ってくれていました。

後に「稟議を書くのが面倒くさいから、海外進出の話は聞きたくない」と言ったのと同じ銀行です。担当者によって姿勢に雲泥の差が生じるのが現実なのです。

業績の回復基調に大きなブレーキとなった

大地震が起きた後の2回目の土日を迎えても、依然として2割近い店舗が正常に営業できませんでした。

 

▼当時の実績速報

 

原発事故による電力不足の懸念から、ショッピングモール館内の照明も暗めにされました。適切な明るさがないと視力測定にも支障が出ます。

大赤字の雑貨事業も字の雑貨事業も2009年に手放し、順調に売上を伸ばしてきていたのに急に大ピンチへ陥るのです。

TGC(東京ガールズコレクション)での露出がふいになった

店舗の営業以外にも震災による影響がありました。

東日本大震災の6日前、虎の子の資金を投入して東京ガールズコレクションのスポンサーとなり、”Look’n Girl コンテスト”というミスコンを主催しました。

グランプリに選ばれたのは、当時ヤクルト監督のお嬢様。するとスポーツ紙に大きく取り上げられ、バラエティ番組の取材も多数受けました。

「翌週のテレビはオンデーズが出まくりだー」と期待していたところ、震災によって、全ての番組が放送中止となってしまったのです。

 
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記念すべき100店舗目オープンはしめやかに・・・

震災発生の8日後、店舗の数が100となる節目の新店が九州に開店しました。

節目の店舗オープンにあたって大々的なキャンペーンを計画していたものの「派手なことは自粛せよ」の圧力がかかりました。

記念の店舗は静かに開店。賑やかしは禁止です。売上も伸びません。前途多難な1年を予期するかのような、暗く重い暗雲が立ち込めました。

被災地にメガネを届けよう!

仙台地区の店舗も依然として復旧の目処が立ちません。社内を重苦しい空気が覆う中、湧き上がってきた声が「お金はないけどメガネはある。メガネを作れる人もいる。できることをやろう!!」でした。

まずは3月25日に(加工の必要がない)既製老眼鏡を携えた先陣隊4名が東京から仙台へ向かいました。

そして現地の受け入れ体制を確認した後の4月1日、検眼機と加工機をバンに積んだ第2陣が出発したのです。

(つづく)

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