17年勤めた銀行をなぜ飛び出したのか?と、よく聞かれます。一言では説明できない複雑な事情があるので思い切って綴ってみました。”倍返し”はドラマで観るぶんにはスカッとするかもしれません。しかし実際は後味が悪いのです。(文中敬称略)
巨大になった新潟支店
前回(第1回) 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 の基礎を作った銀行員時代 は、銀行の不良債権処理ミッションをやり遂げて、いつでもケツをまくって飛び出せる環境を整えたことを書きました。
富士銀行は2002年4月にみずほフィナンシャルグループに統合。(富士・第一勧銀・興銀の)3行全てが揃っていた新潟市では、支店の統合が二段階で行われました。
まず2002年に第一勧銀(以下「DKB」)と興銀の店舗が統合。
- 興銀+DKB → 新潟支店
- 富士銀行 → 新潟万代橋支店
2年後に新潟万代橋支店(旧富士)の店舗も同じオフィスに移転して「New新潟支店」が誕生しました。(勘定上は2005年まで新潟支店と新潟万代橋支店が併存)
新潟県内の唯一の拠点であるNew新潟支店は、福岡支店に次ぐ規模の大型地方店となったのです。
一つの支店に副支店長が4人!?
New新潟支店の支店長は1人となり興銀出身でした。
副支店長は、富士・DKB・興銀それぞれから1名ずつの3人。
預金課の担当副支店長を含めると”副支店長が4名”も在籍するという奇異な構成でした。
昇格リーチの同期が4人
巨大地方店となった新潟支店には私の同期(1989年入行)が私を含めて4人在籍していました。
そして同期の4人とも課長から次長(経営職階)への昇格にリーチが掛かっていたのです。
ただし、少し補足しておかなければいけません。
話は事件の1年前の2004年にさかのぼります。
富士銀の人事なら許さない?
みずほ統合から2年後の2004年、私は次長(経営職階)への昇格にリーチが掛かりました。
富士銀行時代に私が初任課長として新潟支店に赴任したのは2001年1月。課長へ昇進するタイミングとしては、同期の中ではトップグループに属していたようです。
実際、私の課の部下には同期がいて、隣りの課のM課長は私より年次が2つ上でした。
あいつは次が無いから我慢してくれ
当時の(みずほ銀行)新潟万代橋支店にいた昇格候補の課長は私とM課長の二人でした。
そして人事査定の時期にかかると、私は副支店長から次のような説明を受けました。
「しかしMは既に2年遅れていて、今回の昇格を逃したらきっと次は無い」
「2人とも上げられたら良いのだが、新潟エリアの”旧富士”の枠が1つしか無い」
「奥野は今回見送っても次は間違いなく上がれる。Mのためを思って我慢してくれ」
と言うことで、私の昇格は1年先送りとされたのでした。
しかしみずほ全体から見ると、旧富士の課長昇進へのスピードがそもそも速かったため、翌2005年には私は他の同期と横並びになったわけです。
トップ昇格組になんてことを!!
ちなみに「隣の課長を上げるために保留にされた」裏話を、私を目にかけてくれていた昔の元支店長に話した時のことです。
元支店長(既に銀行外部へ出向)はとても憤りました。
「何てことだ! ●●(旧富士銀行の最期の人事部長)が人事部長だったら、そんなことは絶対に許さない!!」
「オレたち(歴代支店長)がトップ昇格させてきた宝を何だと思ってるんだ!!」
本部の人事情報にも詳しい方がそれほど激しい口調で体制を非難するとは・・・
3つの銀行が合併して出来たみずほの人事体制は、以前と比較して相当に歪んだものになったのでしょう。
今回は無事に昇格するらしい
そんなこんなの経緯を経た翌年度の後半に、私は新潟から東京の赤坂支店(当時は赤坂見附支店)に異動となりました。
年度の途中で所属が変更となった場合には、在籍期間が長い方の拠点の長が人事考課を行うルールになっていました。
1月に異動した私は、年度の4分の3を過ごした新潟支店側に評価されることになるのです。
他の同期3人はまだ新潟支店に在籍していました。私だけアウェーにいる形です。
副支店長からおめでとうメール
そして2005年4月初旬、新潟支店の(旧富士ラインの)副支店長から私にメールが入りました。
人事査定結果の連絡でした。
査定結果のフィードバック
下期賞与査定 A
能力評価 S
総合評価 S
昇格符号 4
昇格順位 1位
昨日の支店長席4人の打合せでは上記結果となりました。 ●●さんの案では違う順位でしたが、■■さんから業務監査結果等も踏まえ奥野さんの管理能力を極めて高く評価頂きました。 今後の活躍を期待しております。
私はこのメールを見て「あー、今回は無事に昇格できるのだな」と思っていました。
支店長が裏切った?!
ところがそれから数カ月後、昇格発令が出る数日前に、新潟の副支店長から電話が入りました。
携帯電話の向こうから、ただ事ならぬ雰囲気が伝わってきます。
4人の決定事項を差し替えた
「支店長が裏切りやがった!!」
副支店長は怒りを抑えきれない様子です。
「支店長が人事部に人事調書を提出する際に奥野を最下位にしたらしい」
「人事部と電話で話をしていて”何となく話が噛み合わないな”と不思議に思っていたのだが、やっと順位差し替えの事実が分かった」
「もっと早くに知っていれば巻き返すチャンスがあったのに、もはや万事休すだ」
もはや全てがくだらない
2005年8月1日、年1回の昇格の辞令が出される日でした。
実は、赤坂のT支店長は、私が2つ前にいた”新宿西口支店”では副支店長として一緒に働いていました。
- T支店長:副支店長 → 支店長
- 奥野:課長代理 → 課長
とスライドして6年後に再会し、とても気心の知れた関係だったのです。
何もできなくて俺は悔しい
新潟支店で人事考課を行った同期4人のうち、新潟に残っていた3人(DKB1人+興銀2人)は昇格。
私だけ昇格なしでした。
T支店長は人事考課の結果を私に告げると、涙目になりながら力強く私に言いました。
「奥野、新潟の副支店長から事情を聞いていると思うが、今回は俺は何もできなくて悔しい!!」
「次は絶対に上げてやるから。任せてくれ」
もう銀行なんか辞めてしまおう
私は既に新潟の副支店長から結果を聞いていたので、とても冷めた気持ちでT支店長の話を聞いていました。
T支店長には大変申し訳ないと思いながらも、私は心の中で呟いていました。
「支店長が裏切った」と憤る副支店長や、涙目になって悔しがる支店長の姿を目にして、何だかもう銀行の全てがバカバカしく思えてしまったのです。
そして、この瞬間に「もう銀行から出よう」と決意しました。
くだらない内向き仕事が凋落の元凶
旧行のパイの奪い合いの内輪揉めみたいなことに時間や神経を使うのって本当にムダです。
みずほが他のメガバンクに大きく遅れを取ったのは、こんなことを何年も続けていたからではないでしょうか?
やられたらやり返す。倍返しだ!
2005年8月1日、銀行を出ることを決意した私は、転職先を探し始めました。
そして再生ファンドを運営する日系の投資銀行から内定を取得。11月末日に赤坂のT支店長に退職の意思を伝えたのでした。
T支店長は「そうか…」と無念そうな表情を浮かべました。こういう事態もある程度は覚悟していたようです。
退職届を提出した私は、人事部から呼び出されました。
ハチの一刺し
12月5日、本部へ行くと、人事部は二人がかりで私を慰留し始めました。
「退職の理由は人事に不満があるからだと思うが、君を赤坂に送り込んだ意味が分かっているか?」
と、今さらな話をしてきたので、私はハッキリと答えました。
この日の人事部の結論は「職場の不満ではなく、個人の価値観によるものであることは理解した。これから部内で会議にかける」となりました。
不満はOK、納得しないはNG
現在、OWNDAYS 社長の田中修治は「不満はあっても構わない。納得させることが重要」とよく言います。
正にその通りだと思います。ポイントは、不満ではなく”納得感”なのです。
周囲が「支店長が裏切りやがった」とか「何もできなくて悔しい」と、感情的な怒りを示してくるような”結果”を納得しろという方が無理でしょう。
せめて(査定をこっそり差し替えた)支店長が「奥野は●●なところが、他の3人に比べて劣っているから最下位にした」とご自分の意見を説明すれば”納得”できたかもしれません。
意味深なメールを送っておいた
ただし「ホーム(新潟)に残った落選者に恨まれようとも”(アウェーにいる)奥野を絶対1位で上げなきゃいかん”」という強い動機を、私は支店長に与えることができなかったのも事実です。
その点は私の問題でもあります。全てを新潟の支店長のせいにするのは筋違いかもしれません。
私は退職日の前日に新潟支店長へメールしました。
このメッセージをどの様に受け取るかは、その人の心のうち次第です(笑)
前代未聞の連続退職
結果として2006年1月、私はみずほ銀行を退職しました。
退職時に私が課長を務めていた課には部下が4名いました。
するとあろうことか、私が退職した2ヶ月後の3月に1人が退職。更にそこから2ヶ月後の5月にもう1人が退職したのです。
5人構成の1つの課から半年のうちに3人退職するという、不正や事件絡み以外では恐らく前代未聞ではなかろうかと思われる異常事態に・・・
もちろん私は引っ張り出したりしていないし、その期間に彼らと接触もしていません。
ただ在任中、彼らが銀行員としてあるまじき言動をとった時に「そこが変わらないようであれば銀行員に向いていない。転職したほうが良い」とは常々言っていました。
私が自ら転職したことで「課長の忠告は嫌味じゃなくて本音だったのだ」と受け取ったのかもしれません。
「倍返し」なんて一時の快感だけ
お世話になった赤坂の支店長にはたいへん申し訳ない結果となり、それだけが唯一の残念無念です。
ところで、件の新潟の支店長はどうなったか?
この方は、それまでの経歴からエリートコースに乗っていたはずです。
しかし私が銀行を出た後で目にした人事異動の内容を見ると、必ずしも御本人が期待するポストでは無かったと思います。
(私の思い過ごしだったらゴメンナサイ・・・)
私が人事部に残した言葉と”私の退職~課員2名の後追い退職”の一連の出来事がもし影響したのであれば、今ではたいへん申し訳ないなと思っています。
池井戸潤の小説を原作としたテレビドラマ『半沢直樹』で使われる「やられたらやり返す。倍返しだ!」のフレーズが、以前に流行語となりました。
たしかに「仕返ししてやった!!」その瞬間こそ溜飲を下げて快感かもしれません。
ドラマの視聴者も心地よい余韻を楽しめるかもしれません。
しかし、やり返したって過去は何も戻らないのですよ。
時間が経過するにつれて、言い様のない自己嫌悪にさいなまれるだけです。
銀行員の最期を振り返って
銀行生活の最後の方では、不良債権の管理回収に関しては相当に慣れたものになっていました。
つまり、初期から中期のように強気な回収一辺倒ではなく、お取引先の心情に寄り添った形の交渉や提案ができるように変わりました。
実際、返済交渉を続けていたお取引先は、私が退職した直後に数千万円の回収(お取引先にとっては返済)を行った際に「奥野さんに御礼を言っておいて」と部下にことづけたそうです。
高度化した不良債権回収交渉が後に影響
そのため、後に OWNDAYS の再生に取り組んでいる際に、あまりにも無情な態度を取ってくる銀行に対しては、強い違和感を覚えました。
銀行の担当者の高飛車な言動は、若い頃の自分を見ているみたいで、とても嫌になり、「そんなんじゃダメだろー!」とエキサイトしたのです。
銀行を飛び出した理由をまとめると
結局は「不良債権処理の仕事がもう辛くて嫌だー」ということではなく、
- 不良債権問題は終結してミッション完遂
- 次は企業再生に取り組みたい
- このまま敷かれたレールの上を進むのはつまらない
といった背景で揺れ動いていた状態のときに、合併行の人事の理不尽さに失望して「こんなものに振り回されるのはゴメンだ」と踏ん切りがついた・・・ということです。
私は銀行の体制を批判するつもりはありません。ただ私の価値観と合わなかっただけです。
価値観が合わないから””離婚”したような感じ? ヽ(´o`;
なお、すでに十数年以上経った現在では、体制もかなり変わってきていると思います。
退職金は約800万円
勤続17年弱、39歳の私の退職金はおよそ800万円でした。
自己都合退職の場合の減額率が最も低いゾーン(以降はフラット)に掛かるあたりでした。(狙ったわけではありません)
そして私は、社会人生活第二章~大激動の時代へと突入して行くのでした。
(第3回へ続く)
(第1回)破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 の基礎を作った銀行員時代
(第2回)倍返しは後味悪い!?みずほ銀行を飛び出した背景を説明します