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バブル期の”超売り手市場”就活をなめてクソ生意気な学生だった

昭和から平成に移るバブル最盛期の就職活動は史上空前の売り手市場。私も正直なところ、かなり就活を舐めていました。OB訪問で相手に食って掛かるとか、非常に高飛車でクソ生意気な学生だったな・・・と、今となっては反省しています。(文中敬称略)

金融には興味なく”広告代理店”志望だった

私は大学を出て、都市銀行(メガバンク)に就職し、結局は17~18年を金融業界で過ごしました。

しかし大学での私の専攻は外国語学部のスペイン語。金融や経済とは全く無縁の学生で、就職活動を始めたころにも金融業界には関心がありませんでした。

私は『宣伝会議』や『CM Now』といった専門誌も読みながら、広告の制作やコピーライティングといった職種に対する興味を強く持っていました。

第一志望の電通で不意打ち面接

そして就職活動の開始時に志望する企業は、電通や博報堂といった大手広告代理店が中心になったのです。

私の第一志望は、当時から圧倒的な業界No.1だった”電通“でした。

電通では、願書を提出するため初めて本社を訪問した際に、人事部による不意打ちのプレ面接が行われました。

「君はとても誠実そうだね。バルセロナオリンピックもあるし、スペイン語人材は凄く欲しいんだよね」

(おー、良い感触じゃないかー!)

人事担当者の好感触を受けて、意気揚々と翌週以降に行われた一次面接。とんでもない超高倍率だったものの、私は難なくクリアしました。

不覚の”二日酔い”で二次面接

しかし「プレ面接~一次面接での好感触」に、私は完全に油断をしました。

二次面接の前の晩、あろうことか部活の飲み会で深酒をしてしまい、当日の朝起きたらひどい二日酔い・・・

(やっちまったかも・・)

そんな不安な気持ちのまま面接に望んだら、そりゃダメです。生気を失った表情で受けた面接の結果は不合格となりました。

(実は後日、前述の人事担当者から「惜しかった」との連絡もいただき、不摂生を猛省しました)

私は業界2位の博報堂の面接に向けて気持ちを切り替えていました。銀行などは眼中に無かったのです。

”呼び出し”OB訪問での生意気さ

学生からの人気が当時とても高かった都市銀行や総合商社は、同じ大学のOBから「呼び出し」がかかって面談をしました。

面識のない方々から自宅に電話がくるのです。どういう名簿を利用していたのかは不明です。

しかし呼び出されて訪問した会社のOBの方々は、私にとってはひどく上から目線に感じられ、印象は最悪でした。

たった一人の大学OBの印象で、その企業に対するイメージを固めてしまうのは好ましいことではありません。

それだけ私が金融や商社といった業種を真剣には考えていなかった証ではあります。

財閥系銀行”意味不明な質問にブチ切れ”

この事例は、面識のないOBに呼び出された、ある財閥系の都市銀行Mです。

池袋の喫茶店で向かい合わせに座ると、M銀行のOBはふんぞり返りながら唐突に質問してきました。

「で、何でウチに興味あるの?」

「え!? いや、私は呼び出されて来ただけで…」

「何、その態度?(怒)」

このやり取りで一瞬にして気まずい雰囲気となりました。私も生意気かつ全く志望していなかった先なので「ごめんなさい」は頑として言いません。

「評判通り”お高くとまっている” 銀行だなー」

という率直な感想を持って帰宅したのでした。

総合商社「南米なんか興味ないのに」

これもまた全然知らないOBに呼び出された、総合商社での話です。

「奥野くんね、南米は良いぞー! 地平線がダーッと広がっていてね、人生観が変わるんだ!!」

この商社のOBも、私の志望をろくに聞くことなく、ドン引きするような話を振ってきたのです。

空気を読まない私は、はっきりと言ってしまいます。

「私は南米には行きたくないし、スペイン語を武器にしようとも思っていません」

すると、この商社の大学OBも急に怒り出しました。

「何だそれは? そんな姿勢じゃどこにも受からないぞ!!」

学生時代の私は、接客業のアルバイトで鍛えてられていたこともあり、粗雑な言い方をしたわけではありません。

ズバリ本音を言う学生が珍しかったのでしょう。

ちなみにこの商社のOBに対しては、その嫌味と説教に心底腹が立ったので、帰宅してから抗議文を書いて本人へ送りつけてしまいました。

若気の至りとはいえ、生意気な学生でしたね・・・申し訳ございません。

富士銀行”リクルーター”の勝利

私が志望していた広告代理店の面接の日程はかなり後半だったことから、私の就活は相当にのんびりしたものでした。

リクルートスーツを着て会社を回り出したのは、4年生の6月半ば過ぎです。おまけに就職協定による「選考解禁日」なんかは全く気にしていませんでした。

そんなある日のこと、富士銀行の大学OB(面識なし)から自宅に電話が入り、解禁日の前日に会う約束を取り付けられました。

そして(富士銀行の本店がある)大手町の喫茶店で、初対面のOB二人と面談したのです。二人とも私より1つ学年が上でした。

雑談で探り?すかさずバトンタッチ

そもそも金融に興味がなかった私には、志望動機も何もありません。「学生時代に何をしてきたか?」という話が中心で、面接というより雑談でした。

いきなりトンチンカンな話をしてきて衝突した他社とは大きく違ったのです。

しばらく会話をしていて「イケる」と踏んだらしいOB二人は、「もっと上のOBと会って!」と別の喫茶店へ私を連れていきました。

そして、大学リクルーターのボスみたいな人が登場したのです。

殺し文句を連発する”チーフ”リクルーター

リクルーターのボスは、ひとしきり状況を聞くと、こう言いました。

「君さ、今ごろ何やってるの? もう採用活動なんかほとんど終わっているよ」

「会社訪問解禁日」という就職協定はあったものの、実態は業界間のチキンレースです。

その前の年の1987年は、金融業界が抜け駆けして水面下で選考開始。

するとこの1988年は、他の業界が金融業界を出し抜き、出遅れた銀行が必死で巻き返している・・・そんな状況でした。

「外国語が話せることなんて意味ないよ。通訳がいれば何とでもなるからさ」

「銀行の業務は金融だけじゃないぜ。広告代理店みたいなビジネスだって出来るぞ」

そのボスは、私にズバズバ言ってきます。しかし全く嫌味は感じさせず、広告代理店しか考えていなかった私の心を激しく搖さぶりました。

前述した商社のOBのような”将来に人生観が変わる話“でなく、”面談の場でいきなり人生観を変えるトーク“をした富士銀行に、結果としては軍配が上がったのです。

「それで奥野くん、明日の解禁日はどうするの?」

「みんなで応援するからさ!!」

リクルーターの人たちは、いよいよ詰めに入ったようです。

「どこにも行く予定はありません」

「じゃあさ、朝イチでウチへおいでよ!」

「はぁ・・・」

すると最初に会ったOB二人も、身を乗り出しながら畳み掛けてきました。

「絶対来てね! みんなで応援するからさ!!」

ここまで言われたら、予定がないのに断る理由もありません。解禁日の当日に富士銀行を訪問することになったのです。

最終的には、この3名のリクルーターの熱意と人柄が私を動かしたことになります。

(続く)


奥野の就職活動

(その1)バブル期の”超売り手市場”就活をなめてクソ生意気な学生だった

(その2)富士銀行の巧みな採用フローに”はめられた?”軟禁・拘束の実録

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