バブル最盛期の”超売り手市場”における就活。どうして私が、本命の広告代理店の面接をキャンセルして、興味がなかった銀行に入ることになったのか? 企業側の巧みな採用フローがあったのです。半軟禁状態~拘束までのドキュメント。(文中敬称略)
解禁日初日の富士銀行の軟禁?面接
前回の記事 バブル期の”超売り手市場”就活をなめてクソ生意気な学生だった のおさらい。
バブル時代の就活時(広告代理店が第一志望で)金融業界には興味がなかった私は、富士銀行(現在みずほ銀行)の大学OBから解禁日の前日に呼び出されました。 そこで話をしたリクルーターの方々の人柄に惹かれ、翌日の朝に富士銀行を訪問することになったのです。
私が就職活動を行ったのは1988年。
織田裕二主演のコメディ映画『就職戦線異状なし』が公開された1991年の3年前になります。
ちなみに当時の富士銀行は、就職人気企業ランキングで常にベスト10に入っており、決して不人気で応募者の集まらない企業ではありません。
また内定の大半は体育会やゼミのOBが後輩を引き込む、いわゆる「体育会枠」で、解禁日前にほとんど固まってしまいます。
しかし私は(体育会所属ながらマイナースポーツのため)一般枠での採用でした。
体育会枠と比較すると内定の時期が遅い・・・ということを念頭に置いて読むと理解が深まるでしょう。
広いオープンスペースで面接スタート
私が大手町にある富士銀行の本部へ着いた時には、すでにスーツ姿の学生の長い行列が出来ていました。
ビルの中に進むと、広いスペース(講堂か食堂)いっぱいにテーブルが並べられて、オープンな状態で面接が行われていました。
私は最も端にあるテーブルに案内されました。そこはトイレやエレベーターホールに向かう開口部に面しており、人の出入りもあって落ち着かない場所でした。
しかし後に分かります。この場所には意味があったのです。
さて、面接がスタートしました。 スタートしましたが・・・終わりませんヽ(´o`;
エンドレス面接!?
面接官が何度も何度も「これでもか!!」というぐらい入れ替わります。
「どうしても銀行に入りたい!」という気持ちもなかったので、もし「志望動機は?」とか聞かれたら困惑したことでしょう。
しかし、きちんと引継ぎされているのか、その種の質問は一切ありませんでした。
私は主に、自分のクラブ活動やアルバイト経験を語るだけです。その話を皆さんニコニコしながら聞いてくれました。
面接官が入れ替わるしばらくの間は、ぼーっと一人で席に座っていました。
広い会場では各テーブルで面接が続いています。
実は、私は途中で気がついていました。他の学生はほとんど皆が、1回の面接で席を立って帰っていることに・・・
(自分は言われるがまま、朝からここにいるけど、初日に何社も回るのが普通なのかな?
・・・まあどうせ、自分は他に回る予定もないし、明日は本命の博報堂の面接があるから、面接の練習と思えばいいや)
私はそんなことを考えながら、次々と立ち去り行く学生達を眺めていたのです。
途中、昨日会った2人のリクルーターが、私のテーブルに来てくれました。
「奥野くん、頑張ってね!すごく良い感触なんで 」
何を何のために頑張るのかよくわかりませんでした・・・
トイレも連れション!?
5、6人目の面接に入ると、私はさすがに小便が我慢できなくなってきました。
空腹は我慢できても、こればっかりは限界があります。
「ト…トイレに行かせて下さい。。」
「おっ?おう。気が付かなくて申し訳ない。一緒に行こうか」
まさか私が逃げ出すと思った訳ではないでしょうが、面接官は私をトイレへ案内し、更には私の隣に立って連れションと相成りました。
(もしかして・・・面接官の入れ替わり、リクルーターのフォロー、それにトイレの利用まで想定して、こんな端っこのテーブルに案内されたのかな? これって最初から軟禁状態にしようとしていた!?)
夕方にようやく解放される
ようやくリクルーターが面接終了を告げに来たのは、もう夕方になろうとする頃でした。。
「奥野くん、お疲れさまでした。今日はこれで終了です! 」
「ようやく。。同じことを喋り続けてもう口の筋肉がおかしくなってます・・・」
「ハハハ。途中で一緒にトイレに行った人がいたでしょ? 人事部なんだけど、奥野くんのことをとても気に入っていたよ。ところで明日の予定は?」
「明日は午後から博報堂さんの一次面接があります」
そうだったのです。実は次の日は本命の博報堂の面接が控えていたのでした。
「そうか・・・じゃあ、明日の朝にもう一度来てよ。今日はこれから他社を見て回っても良いからさ」
(こんな時間から訪問できる会社なんかないじゃないか。それに自分が博報堂しか頭にないことを知っているくせに・・・)
そんなことを思いながら私が躊躇していると
「必ず来てよね! 奥野くんを信じてるから!」
そう言われてしまうと断りきれない私の性格をよく見抜いていたようです。その殺し文句に、私はつい応じてしまいました。
「わかりました。朝からお邪魔すれば午後の面接に間に合うと思いますので伺います」
そして運命の日を迎えたのです。
2日目に内定「他の面接は辞退しなさい」
長時間面接が行われた解禁日の翌日の朝、私は富士銀行の本部のさほど広くない一室に通されました。
普段の執務室なのか、採用のための特別室だったのか定かではありません。
「今ここでお断りしなさい。」
個室のその場で私は、いきなり「採用内定」を告げられました。
「ところで、今日のこれからの予定は?」
「午後から博報堂さんの面接があります」
「電話して面接をキャンセルしなさい」
指を差された先の、部屋の隅には電話機が置かれていました。
「えっ、今ですか?」
「そう。今ここでお断りしなさい」
「・・・」
突然すぎる想定外の展開に、私は頭を抱えました。
電話機の反対側の隅では、リクルーターの方々が固唾を呑んで見守っています。
油断させてはめたのか!?
(はめられたか!?)
当時はそこまで考えが及びませんでした。
しかし後で冷静に考えると、長時間面接の直後に「他社も回っていいよ」と言ったのは、私を油断させようとした可能性もあります。
このようなシチュエーションで指示を拒むのは大変な勇気が必要です。
(この内定を白紙に戻して、チャレンジする博報堂がもしダメだったら・・・)
(銀行は、これまで関心が無かっただけで、悪い選択ではないはず・・・)
色んな思いが頭を駆け巡りました。しかし決断しなければなりません。
「分かりました。電話します」
私は手帳を取り出し、博報堂へ電話して面接のキャンセルを告げました。
部屋の中の全員がじっと聞き耳を立てているのが感じ取れました。
「明日の朝に横浜へ来てくれ」
受話器をおいて「キャンセルしました」と告げる私に、リクルーターは満面の笑みを浮かべて言いました。
「良かった! それでは早速だけど、明日の朝に横浜へ来てくれるかな?」
「横浜ですか? 承知しました」
私が嘘をつかない学生だと見ていたのでしょうか、その日はそのまま解放されました。
横浜”レクリエーション拘束”の1日
富士銀行から内定が出た翌日に私は1日、いわゆる「拘束」をうけました。
船に乗せて電話をさせない?
翌朝、集合場所の横浜駅へ行ったところ、リクルーターの2人はスーツ姿です。
そして私と同じく「内定が出たばかり」だという学生2人を紹介されました。
どうやら自分の大学では、私を含めたこの3人が(体育会枠ではない)一般枠採用のようでした。
(ちなみに入行した総合職の大学同期は11人なので、実に7割近くが「体育会枠+帰国子女枠」採用で、私たちよりもっと前に内定が出ていたことになります)
「よし。じゃあまずは、船に乗ろう!」
リクルーターはそう言うと、港の方向へ歩き始めました。
(船で離島に連れて行かれるのかー!?)
一瞬ギョッとしましたものの、乗せられたのは横浜港クルージングのシーバスでした。
当時は携帯電話もメールもない時代。他社と連絡をとる手段は公衆電話しかありません。
船の上であれば「トイレに行くついでにこっそり電話する」のも不可能です。なるほど良く考えられていました。
船上でネクタイを風になびかせ手持ち無沙汰そうに遠くを見つめるリクルーターに、私は尋ねました。
「先輩たち、仕事は大丈夫なんですか?」
リクルーターの2人は顔を見合わせると、笑いながら答えました。
「これが俺たちの仕事だからさー」
銀行に入った後に知ったことですが、リクルーターは辞令を受けて業務として採用活動を行っていました。
ちなみに「君たちを拘束するからね」とか「私たちは拘束されてる?」みたいな『拘束』という言葉は一度も使われませんでした。
私たちの場合は、会社側も学生側も暗黙の了解で「拘束する/拘束される」状態にあったと言えます。
ゴルフの練習で自分たちも楽しむ?
シーバスを下船すると、横浜の街をぶらぶらと歩きながら、丘の上の方にあるゴルフの打ちっぱなし練習場へ連れていかれました。
「ゴルフなんか、やったことないですよ!」
「大丈夫、大丈夫。見よう見まねで振ってみればいいさ」
簡単にクラブの握り方や構え方は教えてもらえました。
しかし、全くのど素人がそう簡単に打てるわけありません。たまに球に当たって前に飛ぶと拍手喝采です。
後半はリクルーターの方々が黙々と練習している・・・そんな感じになりました。
食事をする ~ 解放される
ゴルフ練習場を後にして中華街へ戻ってきたのは、もうお昼を過ぎた遅い時間でした。
そして5人は中華料理店へ入りました。けっこうお高いお店のようでした。
「予算はあるから、気にしないでどんどん食べて!」
そして私たちは、まじめな仕事の話や他愛もない話もしながら、お腹いっぱいご馳走をいただきました。
中華料理の食事の後もしばらくぶらぶらとした後、私たちは日が暮れ落ちる前の夕方には解放されたのです。
その後はこのような形で呼び出されることもなく、数ヶ月後の内定者全体の懇親会を迎えることになりました。
この私の拘束期間から考えると、解禁日から数日間が採用の山場だったのでしょう。
実はリクルーター制度の裏側はよく知らない
銀行のリクルーターは、最初に私を呼び出した大学OBのように、1年目の新入社員が活動の中心となります。
しかし実は私は、リクルーター制度の裏側をよく知りません。私はリクルーターを経験せずに終わったのです。
銀行1年目の夏前から同期たちは、次々と辞令を受けて学生の「刈り取り」最前線へ送り込まれていきました。
そんな中で私は「奥野くん、君には女子学生の採用を手伝ってもらうから、営業店で待機しておいて」と言われました。
そして、今か今かと待っていましたが、結局出番はありませんでした(笑)
半ば強制的に他社の面接を辞退させて拘束した銀行を恨んでるか?
見方によっては、富士銀行が私の志望を巧みに変化させて強引に取り込んだ印象もありましょう。
しかし、全て私が選んだ道です。恨みはもちろん、後悔なんかもありません。
(その1)バブル期の”超売り手市場”就活をなめてクソ生意気な学生だった
(その2)富士銀行の巧みな採用フローに”はめられた?”軟禁・拘束の実録