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当選宝くじ換金「みずほ銀行だけの理由」ルーツは「神サマ」片岡一久

宝くじのルーツを辿ると、戦時中にマレーで発行された「占領地くじ」を日本勧業銀行の片岡一久氏がプロデュースしたことが分かります。現在みずほ銀行が宝くじの販売をほぼ独占的に扱う事態はここが起点となっているようです。(文中敬称略)

みずほ銀行>第一勧業銀行>日本勧業銀行と続く系譜

日本における宝くじの歴史を簡単に整理してみましょう。

宝くじのルーツ・・・富くじ

宝くじのルーツと言えるのが「富くじ」と呼ばれるくじでした。

■1620年代:大阪府の瀧安寺で、年明けの参詣者のうち3人に福運のお守りを授ける「富会」が、次第に金銭くじの「富くじ」となり普及する

■1690年代:徳川幕府が富くじの禁止令を出すも、寺社に限っては修繕費用の調達手段として許可し、天下御免の「御免富」と呼ばれる

■1842年:天保の改革で再び禁止に、以降100年以上富くじは発売されず

■1945年10月:政府が戦費調達手段として「勝札」という名称で富くじを発売

週刊ダイヤモンド 2016/03/05号 より引用

発行禁止の期間中も占領地ではくじが発行されていた

下のリンク先のブログには、戦時中の「占領地くじ※」から初期の「宝くじ」まで貴重な写真と解説が載っています。

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▼占領地くじの説明

1945年に臨時資金調整法の改正により例外的にくじの発行が認められるまで、日本国内では富籤の発行は全面的に禁じられていました

しかし、日本の占領地内では、何度か発行されています。そのうちで有名なものが、これから紹介する昭南証券と興南彩券です。

宝くじ、収集中。より引用

マレーで発行された占領地くじ「昭南証券」が売上低迷。

そこでプロデュースを依頼された経済調査団にいた(日本勧業銀行の)片岡一久氏が責任者となり「興南彩券」を誕生させます。

片岡一久氏は後年「宝くじの神サマ」の異名をとり、今なお続く宝くじの仕組みを作り上げた人物です。

鳴り物入りで登場した昭南証券ですが、しかし実際の売り上げはあまり芳しくなかったようです。

その理由は、おそらく賞金の放出率の低さ(30%)、当選数の少なさ(わずか62本)にあったと思われます。そのほか、くじ発行目的を明確にしないなど、企画の不備が認められました。

そこで軍政監部は、マレーを訪れた南方経済調査団に新しいくじのプロデュースを依頼しました。

調査団の1員であった片岡一久氏(後の第11代宝くじ部長)が実質的責任者となり、新しいくじ「興南彩券」が誕生しました

宝くじ、収集中。より引用

「宝くじの神サマ」片岡一久氏

宝くじの様々なアイディアを打ち出し、宝くじの普及に貢献した片岡一久氏は、その大胆ぶりも記事となっています。

宝くじの歴史をたどると、戦争末期の20年7月、戦費調達のために発売された「勝札」に行き着く。名付け親は、やはり片岡さんである。もっとも、抽せん会が開かれた8月25日には、「負札」と呼ばれるようになっていた。第1回の宝くじが売り出されるのは、それからわずか2カ月後である。

▼目的は、復興資金の調達と国民の購買力を吸収してインフレを抑えることに変わっていた。1枚10円、1等賞金は10万円である。宝くじと命名されたのは賞金のほか、綿布やたばこなど、当時の日本人にとって宝物のような副賞が付いていたからだ。

産経ニュース 2016/11/25 より引用

【産経抄】日本一「当たる」と評判の西銀座チャンスセンター…「宝くじの神サマ」と呼ばれた人が開設した売り場だった 11月25日(1/2ページ)
きのうの雪には驚いた。0センチとはいえ、11月の東京都心での積雪は観測史上初めてだという。にもかかわらず、銀座の一角には、例年通り長い行列ができていた。

’36年に日本勧業銀行(現みずほ)に入行した片岡一久。名前は聞いたことがなくとも、彼が発明したものは誰でも知っている。

宝くじだ。『取締役宝くじ部長』の著書があるノンフィクション作家の大山真人氏が語る。

「終戦から2ヵ月後の’45年10月に第1回宝くじの売り出しが始まりますが、いまも使われている組番号や下何桁という方式を考え出したのが片岡です。その他に連番でもバラでも10枚買えば必ず1枚は当たるようにしたのも彼のアイデア

銀行マンとして顧客を集める方法も独特。新しい赴任地では、まず芸者通い。地元の名士たちの情報を集めた。次は直接交渉だ。

「たとえば『5000万円必要だが、他の銀行は4000万円しか貸してくれない』と言われたら、片岡さんは、『じゃあ、6000万円貸しましょう』と独断即決する。もちろん担保が足りないので、銀行にはウソの報告をする。彼が凄いのは、それでも返済が滞らなかったこと。芸者からナマの情報を得ているから、融資先が伸びるかどうか目が利く」(前出・大山氏)

時には法に触れることも辞さない。別人名義で口座を複数作って税金逃れをしている顧客が少なくなかった当時、税務署が銀行に調査に来ても簡単にはバレないようにと乱数表を作って、顧客情報を暗号化。

あそこなら安心だと顧客をさらに増やした。ちなみに、この暗号化システムは後に防衛庁が、その仕組みを売って欲しいと頼みに来たが、顧客のために片岡はクビを縦に振らなかったという。

現代ビジネス 2013/7/17  我が社にもいた「海賊とよばれた男たち」大きな仕事をして、会社を変え、そして「伝説」となったより引用

片岡一久氏の軌跡

現在はリンク切れとなっている「日本プロファイル研究所データーベース」には片岡一久氏の経歴が詳細に記載されていました。

宝くじのルーツといえば、日本勧業銀行第11代目の宝くじ部長である片岡一久氏です。

宝くじ部長に正式就任したのは遅かったものの、戦時から片岡氏は宝くじの前身である台湾彩票という富くじや、福券、勝札に関与しています。

日本プロファイル研究所データベース より引用

旧第一勧業銀行と福井の関係?

日本プロファイル研究所データベースの記事に気になる記載があります。 

■考察

興味深いのは片岡氏の異動があった支店です。

戦後すぐが福井支店次長なのですが、これはポイントでしょう。

戦後、色んなベクトルが福井に向かっています。福井には何かあるように思えます

日本プロファイル研究所データベース より引用

第一勧業銀行と福井の関係と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、小野グループです。

2012年10月に福井銀行によって会社更生を申し立てられた同社は、第一勧業銀行の不良債権の受け皿として特殊な関係にあったことが明るみに出されています。

みずほ銀、負の遺産が旧第一勧銀の“ごみ捨て場”企業破綻で露呈〜不良債権の受け皿
東証1部上場の土木・産業資材メーカー、前田工繊(福井県坂井市)の株価が上昇している。9月10日に1383円と上場来の高値をつけた。1月7日の409円の3.4倍だ...
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