メガバンクから投資銀行へ転職した私は、”投資目線の再生”と”不動産投資への傾倒”に違和感を覚え「もう金融はいやだなぁ」と業界から身を引き”脱サラ”しました。実は生活費は”相場”で毎月コンスタントに稼げていたのです。(文中敬称略)
「自分のライフワークにはできない」
前回(第3回)メガバンクを飛び出して”逆に”不良債権を買取する側に回った では、(2006年2月にみずほ銀行から転職した)株式会社リサ・パートナーズ(以下「RISA」)での仕事の内容を書きました。
全く新しい仕事に夢中で取り組んでいた私は、実は「投資家としての企業再生」というのは、前もって思い描いていた世界とは違うことに気がついてきたのです。
大型案件と不動産投資への傾倒
もともとRISAは、地方金融機関とのアライアンスを数多く築き上げていく中で、信用や信頼を得て成長しました。
しかし、東証マザーズからすぐに東証1部へ指定替え、かつ”沖縄で不動産を絡めた大型案件”を獲得したことで勢いづき、スタンスが変化しました。
(株)國場組は沖縄県内最大手の建設業者で、映画工業、外食事業、飲料・燃料販売など幅広い事業を行なっている。 また、國場組グル-プ会社はリゾートホテル「ザ・ブセナテラス」「ザ・ナハテラス」等を保有・運営している。
不動産ニュース 2006/3/22 より引用
RISAが狙うのは大型案件が中心にシフト。 特に(ソロスファンドと組んだ)不動産投資に傾倒している様に感じました。
”儲かってなんぼ”の世界
事業再生についても投資会社の基本スタンスは「儲かること」が最優先です。よく考えれば当然のことではあります。
再生すべき事案が100あったとしても、間尺に合う案件は1あるかないか・・・そんなイメージでした。
私が当初に抱いていた「地域金融機関への罪滅ぼし」みたいな感傷はかえって邪魔なのです。
私が決定的に「自分がやりたかった事と違うな」と感じた例を一つあげましょう。
RISAと親密な関係にあった地方銀行の案件です。
地域の事業再生の分野では名の知れた役員が、知恵を絞ってまとめ上げた、ある温泉街の再生計画がありました。
地銀から協力を求められた再生案件を、私が社長に諮ったところ・・・
「で、そのプランでうちはいくら儲かるのだ?」
「●千万円くらいです」
「そんなのやらん」
と、一蹴されました。
”効率良く利益を生む案件を取捨選択する”ことは、社長の経営判断としては正しいです。
しかし自分としては「こういう業務はライフワークにできないな」と思うようになりました。
「もう金融業界からは身を引こう」
また私は当時の不動産ミニバブルをかなり冷めた目で見ていました。
不動産ミニバブルに嫌悪感
1991年に表沙汰となって政財界を揺るがし、当時”戦後最大の金融スキャンダル“と呼ばれた「富士銀行赤坂支店事件」。
実は偶然にも、その事件に関与していた2つの支店は、私が入行した店と銀行生活を終えた店でした。
「金の亡者たち」が好き放題やらかした環境を間近で見ていた自分は、「また懲りないなぁ」とミニバブルに嫌悪さえ感じていたのです。
ちなみに、不動産ミニバブルが弾けた後に、RISAは不動産投資から撤退。
NECキャピタルソリューションの完全子会社となって上場廃止となりました。
もう金融とは関わりたくない
もともと就活時には金融志望でもなかった私は、「もう金融とは関わりたくないなぁ」と思い悩んだ末に、RISAを辞めて金融業界から身を引く決断をします。
2007年春に退職を申し出。勉強に使っていた金融、投資やファンド関係の蔵書は全て処分しました。
Amazonマーケットプレイス等を使って売却したところ、総額で数十万円になりました(笑)
脱サラ!!「一度まっさらになろう」
RISA側からは退職する理由を求められました。
私は「ライフワークにできない」と現職のビジネスを否定するのも失礼かと思い、「副業の方に集中したい」と無理やりな理由を言いました。
しかし実は、サイドワークは何もしていませんでした。
これから「何か起業しよう」と思っていただけだったのです。
なぜ退職に踏み切れたのか?
では私はなぜ退職に踏み切れたのか?
実を言うと、銀行から支給された私の退職金800万円は、1年で倍以上に増えていました。
相場で殖やしていたのです。
毎月コンスタントに、本業で得られる月収以上の利益を相場で稼いでいました。
ただし、流行りの”デイトレード”とか、そのような類いではありません。
ずっと「相場の技術論」に強い関心
私は銀行時代に”個人投資”を始めた初期の段階から”相場師”林輝太郎(2012年没)の相場技術書を読んでいました。
林輝太郎の著作は、ほぼ全てを入手し、繰り返し読みました。
私自身は、林輝太郎が表現するところの「ミーハー投資家」とは一線を画している自負がありました。
つまり「材料を研究して、上げ銘柄を予測し”一発必中”を狙う」のでなく、場帳に日々の値を記録し続け”変動感覚”を磨くもの。
基本は逆張り分割売買で、相場のうねりを取るスタイル。
売買は朝の寄付きの成行き注文だけ。ザラ場(取引時間)は全く値を見ない。
必ず”1枚の試し玉”から入り、ツナギ売買を多用。両建てからのドテンも駆使する・・・何を言っているのか分からなかったら著書を読んでみてください(笑)
脱サラ「数年は生活に問題ない」
私は「数年は定職につかずに、起業ネタの仕込みと準備をしていても大丈夫だろう」と判断しました。
「このまま手堅くカネを運用しながら、じっくりと次にやることを考えよう。
焦る必要はない。サラリーマン生活18年間の垢を落として、一度まっさらになるのも良いよな」
そして俗に言う「脱サラ」をしたのでした。
しかし、人生なんてそんな思い描いたとおりには行かないものです。
脱サラしたはずなのに、小説『破天荒フェニックス』オンデーズ再生物語で描かれているように、結局は「企業再生」の荒波に飲み込まれるわけです。
脱サラした後にやがて私は、とんでもない事態に陥ります。
(第5回へ続く)
(第1回)破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 の基礎を作った銀行員時代
(第2回)倍返しは後味悪い!?みずほ銀行を飛び出した背景を説明します
(第3回)メガバンクを飛び出して”逆に”不良債権を買取する側に回った
(第4回)なぜ私が金融業界から身を引き”脱サラ”に踏み切ったのか!?